文系と理系の区別意味なくない?文系と理系という不毛なアイデンティティー

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日本の学校では文系と理系という区分けして教育を行うことが常態化している。

それでも社会いでると文系か理系かの違いを意識する機会は少なくなるものだ。

仕事をする上で必要な知識や技能は、文系か理系かに関係なく身につけなければならないからだ。

伝統的に新卒採用の場面では、企業は大学教育に過度な期待をしていない。

大学教育で何を学んだかなど2の次で、人物重視の専攻が行われている傾向がある。

社会人として特に際立った専門性を見出しがたい文系の学生ほど、人物重視との名の不確かな選考が行われるのだ。

社会の実態を考えた時、文系と理系などを明確に意識することが何の意味があるのか考察しよう。

仕事では、分からないことは調べ、必要なことは勉強するのが当たり前


日本では、文系か理系かが強く意識された教育が行われています。

数学や理科系科目に強いのが理系で、社会や国語に強いのが文系だと、大雑把に区別されています。

社会に出てからは、理系の方が専門性が強く、より専門的な職業につく傾向があります。

一方、文系は、際立った専門性が少なく企業のなかでは営業職に就くことが多い印象があります。

しかし、会計学や経済学などは、大学などでは、文系学生を対象に指導されることが多く、文系の学問のイメージがあるものの、極めて理論的、数値的な学問です。

また生物学などは、分野にもよりけりですが、言葉によって概念や理論を理解することが多く、理論的、数値的な要素は比較的少ない学問である印象です。

そもそも、多種多様な学問を文系と理系に大別するのは結構ですが、その大別を過剰に意識することに果たして何の意味があるのでしょうか。

ビジネスパーソンとして活躍するためには、分からないことや知らないことは、その都度調べたり、勉強したりして、目の前の課題を解決しなければならないものです。

必要なことは貪欲に学び、分からないことはその都度調べていかなければ、目の前の問題に対処できません。

それが文系の学問なのか、理系の学問なのかは、まったく関係ないのです。

















文系だから、理系だからを言い訳にする人々


文系だから、機械の構造やシステムについてはわからないと、仕事を丸投げしたり、理系だから英語はわからないと、あきらめたり、門外漢のことに対して、初めから理解することを放棄する人をよく見かけます。

しかし、一言に理系といっても幅広く、ITのシステムエンジニアもいれば、建築・土木などの建設系の技術もいますし、無線や通信の専門家もいます。

誰にでも、精通している分野とそうでない分野があります。

本当にその特定の分野だけに特化して仕事をしている人も中にはいますが、多くの場合、仕事において自分の専門以外の分野に関わることが少なからずあるはずです。

そして、例え門外漢の分野に関してでも、積極的に理解しよう、学ぼうという意欲があれば、たいていの場合は何とかなる場合が多いものです。

私は、文系出身ですが、仕事で建築や土木の知識が必要とされる場面があり、現場の技術職員に説明を受けながら、何とか理解しようと必死になったことがありました。

もちろん初めは、飛び交う言葉の一つ一つがまったくわからず、しつこく同じ説明をしてもらったり、図面や設計書などの資料を何時間も睨めっこしながら四苦八苦しながら食らいつきました。

そうしたことを繰り返していくうちに、建築や土木のおおよその構造が図面や設計書から徐々に読み取れるようになってきたのです。

私は、当初、文系出身で理系の勉強なんてしてこなかったから、建築や土木なんてわからなくて当然だと自分で自分を弁護していました。

しかし、当然のことながら、誰もが何もわからない状態から、少しづつ知識を付け、理解を深めて専門家になっていくのです。

分からないことが分かるようになる、そのことに文系も理系も関係ないのです。

大切なのは、今まで勉強したことのない未知の分野でも、貪欲に知識を吸収し理解しようとする姿勢、ただそれだけなのです。

文系だから、理系だから、いままで勉強してきた専門領域と違うからと言うことを言い訳にして、新しい未知の分野について、理解しようとすることを放棄すること。

それは、自分が成長する機会を放棄していることなのです。







知識がないと興味は生まれない


興味のないことに対して、無頓着だったり、始めから分からない知らないと、理解しようという努力を放棄する人がいます。

日本の学校教育においては、高校生2年次から文系と理系の選択が行われることが多いようです。

その結果、分理の選択が行われる高校から大学受験にかけて、文系か理系かというアイデンティーが形成されてしまいます。

自分の得意な分野であったり、将来の進むべき道を早くから見定め、自分の志向にに見合った教育を受けることは、それはそれで素晴らしいことです。

しかし、文系だから、理系だからというアイデンティティーが、未知の分野について学ぶことを放棄する口実に使われることが多いのは残念なことです。

自分が不得意だと思っている分野について、文系だから、理系だからという口実で、積極的に学ぶことを放棄する人が後を絶ちません。

そもそも、人の興味など、知識のないところからは生まれて来ないのです。

始めは何もかも分からないながらも、ガムシャラに突き進んでいくうちに、徐々に知識がついて理解が深まってきます。

理解できるようになると、興味というのは後付けで生じる場合も多いはずです。

改めて自身が、興味があったり、得意だと思ってることに関して考えて見ると、多くの場合、始めから得意だった訳ではないはずです。

地道に努力した時期だったり、嫌になって投げ出しそうになったりした時があるのではないでしょうか。

仕事でもスポーツでも勉強でも、多くの苦労や挫折の結果、その分野について、自信をもって、興味がある、得意だと言えるようになるのです。

そう考えると、何か新しいことな未知の分野について、分からない、興味のないと思いこんで、端から門前払することは、自らの可能性や成長する機会を放棄していることになるのです。

人生は有限ですし、時間も無限にあるわけではありませんので、1人の人間ができることには限りがあります。

それでも、今は興味のない未知の分野で、思わぬ適性を発揮する可能性は誰しも持ち合わせているかもしれません。



文系的な思考回路と理系的な思考回路


文系か理系かにとらわれず、自らの可能性を探ることが大切ではありますが、文系的な思考回路と理系的な思考回路はある種の傾向があります。

文系的な思考回路が強い人は、細部にとらわれず、感覚的・直感的に物事の本質をつく能力に長けてる一面もあります。

しかし、感覚的・直感的に物事をとらえすぎるあまり、理論的、数値的な物事の軽重を軽視する傾向にあります。

例えばコロナの感染者数の報道が連日のようになされる中、コロナの報道される感染者数のみから、感覚的に事態の深刻度やコロナの蔓延度を理解してしまう人が多くいます。

当然のことながら、感染者数は、検査をした人の中で、感染が発覚した人数であり、そもそも検査する母体が増えれば、感染者の絶対数が増えるのは当たり前だという視点が必要になります。

そのように考えると、検査した人の中での陽性者の割合であったり、そもそも検査していない人の中にも一定数感染者がいるのではないかと複合的に捉えるのが、何より重要です。

マスコミ報道による印象操作や表面的な数字のみに踊らされる傾向が強いのは、文系的な直観的・感覚的に事態をとらえようとする人に多い印象があります。

一方で、理系的な思考回路の人間は、論理的に物事を考える能力に長けています。

仕事をする上では、物事を論理的に考えることが出来る思考力が最重要視されますので、ビジネス界では重宝されます。

もちろん論理的思考力の高いことは素晴らしいことであるが、曖昧で不確かな現実社会を何でも論理的に解釈しようとするあまり、現実離れした思考をする人も見かけます。。

私は元国家公務員ですが、役所の仕事は、何をやるにも法令の根拠や対外的に説明可能な筋書きを求める傾向があります。

すべての仕事にはそれを行う根拠があるという行政の仕事の本質は、致し方ない面もありますが、時に行き過ぎた発想をする人も多く見かけます。

根拠があるはずがないことに根拠を無理やり求めたり、論理的な説明が困難なことに、無理やり論理的な筋書きを嵌め込もうとする人も多く見かけます。

現実には、実務の積み重ねから慣例上定着したもので、現場の実情からそうせざるを得ないことも多く存在します。

そもそも世の中は曖昧で不確かなことが多く、多くの利害が複雑に絡み合うなかで、妥協して落とし所を見つけていくものです。

その妥協して導かれた結論を全て論理的に説明することが困難なことも多いものです。

感覚的な適合性や違和感から、結論を導くことを嫌い、過剰に論理的な筋書きを求めることは、しばしば現実離れした結論を導くことも多いのです。

ビジネス界で、真に必要なのは文系的な思考と理系的な思考を併せ持つ、バランス感覚に優れたスキルなのです。





学問の適性と仕事の適性は異なる


大学生になり、いざ就活をするとなると、文系学部出身の学生と、理系学部出身の学生は、企業からの求人は大きく異なったものになります。

理系の学生は、大学で学んだ専門性がそのまま企業から評価され、その専門性が直接生かせる「研究職」「エンジニア職」「土木・建築職」などの職種で採用されることが多くなります。

また、大学で学んだ専門性とは異なった分野であっても、理系の基本的な素養や知性を求める企業は多くあります。

一方の文系学生は、特定の専門性が評価されることは少なく、人物重視の採用選考が行われる傾向にあります。

結果として、文系学生は、特定の職務を限定されない総合職として採用され、総務や人事などの事務職や営業職に配属されることが多いのが印象です。

このように特に理系の学生は、学生時代に培った専門性と直接紐づけられた特定の専門職種へ就職すること多い傾向にあります。

しかし実務の現場で仕事をしていると、その人がこれまで学んできた専門性と、実際の仕事の適性は、必ずしも符合しない場合が多く見受けられる印象です。

工学部で機械工学を学んでいた学生が、その専門性を生かしメーカーで機械系のエンジニアとして就職したものの、地道に機械の設計や開発を行う仕事に馴染めるかどうかは専門性とは別次元の話です。

社交的で人当たりもよく対人折衝力のある人柄であれば、地道に機械の開発を行うよりも、営業職の方が適性を発揮するかもしれません。

理数系の素養はあるものの、たまたま文系学部出身でIT企業の営業職に配属された人が、性格的に営業には馴染めず、システムエンジニアとしてキャリアを積んだ方が才能が花開くことだってあります。

企業の人事においては、その人がこれまで学んできた学問と仕事を紐づけて、配属や職種を決定することが多いのが実情です。

専門的な知識や技能が必須とされる仕事であればあるほど、その専門分野に関する基本的な素養を重視せざるを得ない面は確かにわかります。

しかし、その人が持っている学問的な素養とかけ離れた分野の仕事で、思わぬ適性を発揮することも少なくはないはずなのです。













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